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英宗 (元朝) : ミニ英和和英辞書
英宗 (元朝)[あさ, ちょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [そう, しゅう]
 【名詞】 1. sect 
: [げん, もと, がん]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 4. (2) former 
元朝 : [げんちょう]
 (n) New Year's morning
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

英宗 (元朝) ( リダイレクト:シデバラ ) : ウィキペディア日本語版
シデバラ[あさ, ちょう]

シデバラモンゴル語:、Šidebala漢字:碩徳八剌、 1302年2月22日 - 1323年9月4日)は、モンゴル帝国)の第9代皇帝(大ハーン)。名はシッディバーラとも読まれる。
== 生涯 ==
仁宗アユルバルワダの長男で、コンギラト部族出身の母を持つ。はじめ、アユルバルワダは兄で先代ハーンの武宗カイシャンの子を皇太子に立てることを兄と約束していたが、至大4年(1311年)にカイシャンが急死すると政変が起こってカイシャンの重臣は追放され、カイシャンの2人の遺児も遠隔地に追いやられた。さらにカイシャン・アユルバルワダ兄弟の母ダギは、自身の実家であるコンギラト部族の者を母とする王子を次代のハーンに擁立して自身の影響力を高めようと画策し、カイシャンの遺児を差し置いて、シデバラが皇太子に冊立された。このような経緯のために、シデバラは即位の以前からダギを中心とするコンギラト派の重臣たちに取り囲まれた状態にあった。
延祐7年(1320年)に父帝の崩御により18歳で即位した。その治世は長年の放漫財政によって財政的には破綻寸前であり、年若いハーンは政治的にはほとんどダギとその腹心の寵臣たちの傀儡に過ぎなかった。ダギは孫が即位するとすぐにアユルバルワダの晩年に遠ざけられていた腹心テムデルを中書右丞相に復帰させ、政治を先帝の治世以上に壟断した。
至治2年(1322年)、ダギとテムデルが相次いで没すると、20歳になっていたシデバラはようやく自らの手に実権を回復した。シデバラは世祖クビライ時代の右丞相アントンの孫でテムデルの政敵であったバイジュを右丞相に起用すると、コンギラト派を排除して新政権を樹立し、ハーン主導のもとで体制の引き締めを開始した。しかし、テムデルの爵位を剥奪して遺産を没収し、遺児を処刑するなど、コンギラト派に対して厳しい弾圧を加えたことから、テムデルの義子(養子)である御史大夫テクシをはじめとするコンギラト派の貴族はシデバラを怖れるようになった。
至治3年(1323年旧暦8月、シデバラの宮廷(オルド)が夏の都上都から冬の都大都への季節移動の途上で南坡という場所に滞在していたとき、テクシは部下のアスト衛兵をはじめとする手兵を用いてシデバラの宮廷を襲い、シデバラは右丞相バイジュとともに暗殺された()。その後、シデバラを暗殺したテクシらは従兄の晋王イェスン・テムルをハーンに擁立するが、イェスン・テムルとその腹心たちはテクシらの傀儡となることを怖れ、先手を打ってテクシの一党を逮捕、処刑したため、コンギラト派は結果的に一掃されてしまった。
シデバラの治世は短く、特にダギの死後親政を行ったのはわずか1年に満たないが、3年の治世は文化的にはアユルバルワダ以来の漢文化の保護が続き、漢人の編纂した史料では評価が高い。そのような視点により、シデバラ暗殺後に即位したイェスン・テムルがもともとモンゴル高原に駐留する王族であり、イェスン・テムル治世では科挙実施などの漢風政策が後退したため、シデバラの暗殺は漢地派と高原派による政権争いであったと説明されることもあった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シデバラ」の詳細全文を読む




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